コラム

自分のルーツは隠さずにどんどん口にした方がいい。"オリジナル"であることに意味はない。

先日、とても嬉しいことが起きた。
それは、このブログで僕が憧れていたある人を記事の一部で紹介していたところ、たまたまとあるきっかけでその人が僕の記事を読んでくださり、今度趣味をご一緒しましょうという話になったのだ。

僕はこのブログを始めた時、それを続けていく上で「こうなればいいな」と思っていたビジョンがある。
それは金銭の発生ではなく、ブログを通じて他者と新しい出会い・つながりを作ることだ。

普段僕は自宅作業のフリーランス経営なので、新しい出会いが日常に起こることはそうそうない。
そういう出会い(もちろん異性関係という意味ではない)のきっかけに、このブログがなればいいなと思って続けている。

そしてその目的を初めて達成したのが僕が憧れていた人ということもあり、これはとんでもなく嬉しい出来事だった。
この体験から、また他に僕が知る人たちの行動をもとにこの記事では「自分が何に影響を受けたかは隠さずにどんどん口にした方がいい」ということを書こうと思う。

ルーツを公表することは、そのルーツと繋がれる可能性が生まれる

創作者の立場として「僕のこの創作物は〇〇の影響を受けています」と公言するのは、少し勇気がいることだと思う。
なぜならそれは、「パクリ」と非難される可能性を孕む上に比較対象としてテーブルに上げられてしまうからだ。

しかしどんな人であれ、「あなたに影響を受けました」と言われて嫌な気持ちがする人はいないだろう。
僕もそれがネガティブな意味でない限りは、誰にそう言われても心底嬉しい。

そしてその発表したルーツはその人自身に届く可能性があり、そこで何らかのアクションが生まれる可能性があるのだ。

ここで思い当たる話がある。僕はTHE NOVEMBERSというバンドが好きだ。
彼らの音楽を人間性も含めとても尊敬している。

そんな彼らは、時折自分が受けた影響元やルーツの話をする。
たとえばL'Arc〜en〜Ciel、Blankey Jet City、Dir en Grey、BOOM BOOM SATELLITESなど大御所ばかりである。
そして、そのルーツを公言したあと、これら大御所バンドのメンバーとTHE NOVEMBERSのメンバーは様々な形でコラボしている。

もちろん公言しただけではなく様々な行動と努力、そもそものポテンシャルもあったのだと思う。
しかし、この「ルーツを公言する」ということが、ルーツとの共演を果たすことができた一因になっているのは間違いない。

音楽というジャンルは特に「パクリ」と揶揄されやすい。
しかしそれを公言することで、比較される覚悟とその上で説得力となる創作物のクオリティを背水の陣として敷くことになり、その結果大きな出来事が生まれたりするものだ。

ルーツを公言することで、逆にその人たちの丸パクリを公表することはできなくなる、ということである。
そもそも創作活動において丸パクリの公表はご法度なので、それにビビるくらいであれば創作活動をすべきでない。

このブログという場において僕はルーツを発したところ、それと繋がることができた。
別にそれを金銭につなげようとかいう下心はない。しかし、こういった繋がりが増えることでこのブログがさらに面白く、そして自分も嬉しい、意味のあるものになればいいなと思う。
なにより自分の書いた文章という創作物が憧れの人に届いているという事実、さらにそれで喜んでもらえていることがすごく嬉しい成功体験になった。

"オリジナルである"ことの無意味さ

先ほど丸パクリは良くないとはいったものの、「オリジナルである」ことに意味はないと思っている。

まだ誰も見たことがない、どのルーツにも属さないものというものは基本的には存在しない。
それができるのは人類が未発見のものを発見できる科学者くらいだと思っている。

誰しも、「学ぶ(真似ぶ)」ことで成長して大人になる。
そんな人間が公表できる「オリジナル」なんてないのだ。

スケールが大きすぎて開き直りのようにも聞こえるが、僕の好きな米津玄師さんが「過剰なオリジナリティへの信仰」と銘しこのことを言葉にしてくれている。

“パクり”っていうのも曖昧なもので、どこからどこまでパクりなのかとか、そういうことは自分が決めるものではないっていうのがまずある。いろいろ言われるじゃないですか、「バレるとヤバいのがパクりだ」とか「リスペクトがあるのがオマージュだ」とか。でもそのラインもあやふやなんです。そこに対して過剰すぎる人がいるのが、やっぱり気に食わないんですよね。例えるなら、木の絵を描いたことに対して「これは木のパクリだ」みたいなことを言っている人がすごく多いような気がする。いろんな文脈があって、その歴史があって、自分はその歴史の最先端の今というところでものを作っているわけで。いろんな場所から何かをピックアップしながら今の自分が生まれていると思うんですよ。

引用元:音楽ナタリー

今自分の作っているものは、別の創作物だけでなく育った環境や人間関係など数えきれない多数の何かに必ず影響を受けている。
その中から何をピックアップし、自分の創作物に反映させるかということがオリジナリティというものだ。

記事の上記文章のあとにも書かれているように、「パクり」と言われることを徹底的に避けようとすると、ノイズのような異物になったりする。
もしくは「自分にしかできない技術」をもとめて過剰な技術至上主義になる。

それも実はすでに過去にそういう流れがあり、1960〜70年代のプログレやノイズミュージックのシーンだ。
技術主義を覆したのがセックスピストルズをはじめとするパンクロックであり、すでにこの流れは歴史の中で繰り返されている。

ノイズミュージックというものは一部の人には熱狂的にもてはやされるかもしれないが、「一般層」の人間にはなかなか理解できないものだろう。
また「自分だけしかできない技術」というものが確立したとして、それが評価されるとは当然限らない。

そう、「完全なオリジナル物」というものは実は「面白くない」のである。
人はそれぞれ趣味趣向があり、それと似通ったものや差異を感じて新たなものを好きになっていくのだ。

「オリジナリティ」で悩んでいる人に対して、僕はそんなもので悩んでいる時間は無駄だと答える。
「パクリ」と言われることなんてのは大したことじゃないし、創作物には必ずつきまとう些細な「ディス」の一つでしかない。
そんなことを気にするよりも、「自分が何を表現したいか」「どう表現すれば人が面白がってくれるか」を考えることの方がよほど重要である。

でも「悪質な盗作」は絶対ダメ。

当然、「盗作」はよくない。
パクリと盗作の線引きが難しいので「パクリだ」と指摘するパクリ警察が生まれてしまうわけだが、創作者のなかにはもちろん悪意を持って「盗作」するものもいる。

わたしは「ガジェマガ」というブログがとても好きでをよく読むのだが、最近こんな記事が公開された。

ブログ記事がパクられてたから対処した話【著作権(DMCA)侵害】

内容を要約すると、上ブログのある記事の内容がほぼコピーされたものがネットに公表されていて、それに対処したが非常に面倒だった、という内容だ。

創作物には当然「著作権」というものが存在し、それを侵害するものであれば犯罪になる。
この記事のように、文章をほぼコピーした上に写真だけを変えるというものは「盗作」と言われて返す言葉がないだろう。
しかも盗作された当人はこれに対処する時間の無駄だといっておりとても迷惑している。
自分のルーツに迷惑で返すなんて、なんて恩知らずだろうか。

こういう盗作は、自分の頭を練らずに時間をかけずに金銭・評価を得ようとする単なる「サボり」に他ならない。何より犯罪だ。
この記事を作るときには当然、自分オリジナルの文章ではなくコピーしたものを書き換えただけ、という認識があるだろう。

こういう悪質なパクりがあるせいでみんな過剰反応してしまうのだとも思う。
何かを公表し何かを得ようとする人は、自分の作ったものに胸を張ってプライドを持てるようにだけはしていただきたい。

影響を受けていることを恥ずかしがらない。

先ほどの盗作記事の人も、あらかじめ「僕はガジェマガに影響を受けています」と公言していたらこんな行動は起こせないだろう。
それは自分のルーツへの冒涜であり創作への冒涜でもある。

そういった意味でも僕は何かしら自分が影響を受けたものを、恥ずかしがらずに公言していきたい。
それは僕が、様々なものから影響は受けたが盗作ではないという読者に対しての「約束」のようなものにもなると思う。

この記事を読んでくれた方に、少しでも「パクり」「オリジナリティ」というものに対しての考え方に影響があれば嬉しいし、なにより自分のルーツの人と繋がれて創作活動が楽しくなることを祈っている。

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