コラム

やりたいことが分からない人へ:「今」やりたいことを優先させる生き方でいいと思う

好きなことで生きていく」という標語が一般的になったいま、その言葉に対して大きく3つの視点・立場に分けられる。
それは、

①やりたいことで生きている人
②やりたいことに蓋をする人
③やりたいことが分からない人

である。
今回この③の「やりたいことがわからない」という問題を深堀りして考えたいと思う。

影響力のある有名人や人生相談系の動画やコンテンツで本当によく見るのが「やりたいことがわかりません。今の自分の立場はこうこうで…」という相談である。
大抵かなりの長文になり、本当に悩んでいるのがよくわかる。

かくいう僕も本当にやりたいことが分からなくなるなる時期が定期的にあり、そのたびなぜそういう状態になってしまったのか、あの頃の情熱はなぜ無くなってしまったのかということを考える。
それで今、この人生において重大な悩み(という思い込み)へのざっくりとした回答を書いておきたいと思う。

きっとこの悩みは、悩んだこともなくずっとやりたいことをできている人に相談しても一般的な理論やメソッドだったりふわっとした自己啓発的な回答しか得られない。この文章は僕がこの何度も問題に悩み、脱却し、また悩みを繰り返してきたからこそ書けるものだと自負している。

自分の「自然な行動」を肯定する

僕が考える回答は、常に「自分の行動を肯定する」ということだ。そしてそれは、他人の目から評価されることではなく、自分がやっていて楽しい・幸せだと思えればそれでいい

例えば休日にやりたいことが無くて結局一日ダラダラ過ごしてしまったとする。
多くの人はそれを「無駄な一日」と感じてしまうし、そう言われてしまうことも多いだろう。しかしそうではない。
ダラダラしている状態が今の自分にとって一番心地いいからその状態だったのであり、それが「今やりたいこと」だったのだ。

いやそれではだめなんだときっと反論することになるが、しかしそれは自己嫌悪からくるもので、その自己嫌悪も世間体や他人からの評価を気にしてのことである。
無駄な時間を無くし、人は成長しないといけない。一体そんなこと誰が決めたのだろうか。

やりたいことに他人の評価を介在させない

有名人、カリスマ、憧れの人、その人たちの輝きを見ていると自分の情けなさが浮き立ってしまう。友人だって趣味が合って頑張っているのに、それに比べて自分は…
これはすべて「他人との比較」から生まれる感情である。

たとえばやりたいことをなんとか見つけたとして、それが「本当に自分がやりたいこと」なのか、それとも「やっている状態を人にアピールしたいこと・評価されたいこと」なのかで大きく違う。
後者であれば、結局は本質的にやりたいこととは言えず、幸せになることはできない。
他人から幸せそうだと思ってもらえるかもしれないが、そんなことは重要ではない。

だからまずは自分の状況を俯瞰的に見るのはやめて主観的に見て、自分の感情に素直に沿った行動をすればいいと思う。

例えば友人が毎週末、趣味のテニスに打ち込んでいたとする。自分はやることが無くて一日家で寝ていたとする。
きっとそのテニスをやっている友人は、テニスをやるために重い腰を上げているなんてことはなく自然に当然のようにテニスに着手している。それに対し、自分は自然に家でゆっくりすることを選択しているだけなのである。
「一日寝ていた自分よりテニスをやっていた方が偉い」と考えるのがいけない。

結局人は生まれてから死ぬだけの存在で、死ぬときに誰も採点なんてしない。テニスをしていようが寝ていようが、家族に友人にどう思われようが、人間死んでしまったら皆同じ灰なのである。
だから受動的であれ能動的であれ、自分の一日を決して反省などせず「肯定」することが大切である。

何になりたいかより、何をしていたいか

もう一つ、やりたいことが分からない人はやる前から大きな目標を掲げ、または意識してしまいがちだ
それは例えばテニスをするなら上手にならないといけない、Youtuberになるなら有名になって再生数を稼いで収益が無いといけないという強迫観念である。
始める前から大きい存在のことを意識してしまい、自分のちっぽけさやこれから始めることの道中にある苦労や挫折を先に考えてしまい、行動できない。

やりたいことが無い、という人はこういう思考をしがちである。
これは他人からの評価を意識して、評価されず傷つくのが怖いだけなのである。

これは子供の時からある「将来何になりたいか」という質問が悪だと僕は考える。
プロ野球選手、俳優、ミュージシャン。いまならYoutuberもあるだろう。この質問は、その肩書に達成した人こそ「偉い」という固定観念を植え付けている。そういう「肩書」を夢にしてしまうからこそ、そこに届かない人たちが挫折し、自己嫌悪し、他の道を探し、迷ってしまう。

僕は「何になりたいか」よりも「何をしていたいか」の方が重要なのだと思う。
「有名ミュージシャンになる」という夢は、「歌いたい・奏でたい」という本質的にやりたいこととは別の目標になってしまっている。

歌が好きなのであれば、歌えばいい。それは他人の評価の高低に影響されるものではない。
ジャイアンは誰からも歌を評価されないが、とにかく歌うことをやめない。それは、ジャイアンは「歌いたいから」歌っているのであり、「歌を評価されたい」からではないのだ。(評価されずに怒ったりはするが、恐れないしめげない。)

「やっぱり歌いたい、奏でたいだけでは満足いかない。音楽で有名になりたい」という方は、じゃあそれ相応の覚悟を決めないといけないね、やりたいことが無いなんて言ってる場合じゃないよということである。

「今」やりたいことを優先させる

でもやっぱりダラダラしているのはいやだし、何かを始めたいと思う人はいるだろう。
そんな方にはとにかく「たった今やりたいこと」を常に意識していくべきだと思う。

きっと、子供のころからずっとやりたいことが無かった、という人はほとんどいないだろう。
ここでいうやりたいこととは将来の夢という意味ではなく、ゲームがしたい、遊びに行きたい、何かが欲しい、そういった感情のことである。

人の心には「情熱の火」というものがあり、それは年齢とともに弱っていく
なぜなら人は歳を取るごとにさまざまなことを経験し成長性しているからこそ、物事を始める前から予測できてしまい、新しいことを始めるにしても新鮮味を感じなくなってしまうからである。

だからといって自分の年齢に悲観的になるのはもってのほかである。
「やりたいことが無い」と悩んでいるということはその状態から脱却しようという意識がまだあるということで、それさえもすでに無くなってしまった人も多いのだから、大きなリードである。情熱の火は消えていないのである。
そしてどの瞬間も「今」がこれからの自分の最も若い時である

この情熱の火を絶やさないためには、常に自分が「今」やりたいことに素直に従い続けることが重要である。
何度も言うがこれは他人に評価されるものでなく、本当に何でもいいのである。昼寝したいなら昼寝すればいいし、散歩したいなら散歩すればいい。
それら感情に赴いた行動を、すべて「自分が面舵をとってこの体を動かしている」と考えることが重要である。

飽き症をポジティブに考える

人は同じことをずっと続けていると必ず飽きる。
ひとつのことを継続していて、それをずっとやりたいことをやっているように見える人はきっと同じことをやっている中に常に新しいことを模索できている人なんだと思う。「職人」とはきっとそういう人だ。

しかし「職人」と比較して「飽き症」という言葉をネガティブに捉えてはいけない
飽きるということは既に自分の中に吸収したということで、それを継続して極めるか他に移るかは自分の判断であり、その判断に不正解はない。

逆に言うとまた更に新しいことを始めて吸収できるチャンスなのだ。そしてそのうち吸収したいくつかのもので「掛け算」ができる可能性があるかもしれない。それは職人という生き方を選んだ人にはできず、飽き症の人にはできることだ。

どんな言葉も生き方も、捉え方次第でどうとでも言えるんだから尚更他人の評価なんて気にする必要はない
やめたんじゃない、飽きたんじゃない。方向転換しただけだ。

小さなやりたいこと、からアップデートしていく。

長々と書いたが、結論「やりたいことが無い」という悩みへの回答は、
その悩みがあるだけで十分あなたは強い。その少しでもある情熱の火を絶やさぬよう、自然にやりたいことをやればいい。それは日常の些細なことでもいいから『やりたいからやっている』という意識を持つ。そこに他人の評価は関係ない。」ということである。

「成功体験」なんて言葉は耳タコだろうからここでは言わないが、とにかく自分の行動はすべて自分が面舵を取って行動している、と意識し続けていれば、
自然にその「やりたいこと」とは些細なことから大きな行動にアップデートされ、あなたがなんとなく思い描いている「"規模の大きな"やりたいこと」に繋がっていくんじゃないかと僕は考える。

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